重吉さんの信仰

  • 2018.03.29 Thursday
  • 10:36

八木重吉は、師範学校の学生時代から次第に信仰生活に入りやがて洗礼を受けます。死後、その詩が知られていくにつれて詩人でありクリスチャンであったことも知られていきます。生前のさまざまなエピソードを読んでも、大変に熱心で敬虔な信仰を持つ人であったことが窺われます。彼の詩の中には「かみさま」や「基督(キリスト)」という言葉が出て来るものが数多くありますが、私は、八木重吉があらわしている「かみさま」というのは「キリスト教の神様」だけに断定されず、もっと普遍的な誰の心の中にもある「大いなる存在」のことを指しているように思えます。この普遍的な大いなる存在をクリスチャンであるかないかを超えて、共感できることが私が八木重吉の詩を愛する理由の一つで、この一連の曲を作曲したいと思った理由でもあります。

 

また重吉は、自らの死期が近いことを悟った時にこのような詩をノートに書き付けていました。

 

わが詩いよいよ拙くあれ

キリストの栄え、日ごとに大きくあれ

 

神に自分をすべて明け渡しているこの詩は、強烈な自我の主張とは対極にあると思います。

謙虚を超えた、自らすべてを捧げている彼の姿勢を感じます。

死を前にすると、人間の本性が出るといいますが、彼は死に向かう苦悩の中から自分のありたい美しい姿というものを見つけ出したのでしょうか。

 

私はいつもパイプオルガンの曲を作曲していますが、私の心惹かれるオルガン奏者が他の楽器の奏者と決定的に違うと思う点があります。それは、卓越した演奏でありながら、そこに自分の感情や思いを込めるのではなく、まさしく「神にすべてを明け渡して」自分は神の声をスルーさせる道具であるという姿勢を徹底しているところです。

この八木重吉の詩にもまさしくそれを感じます。

そして、私もこうありたいと、熱望します。

 

重吉さんは、素晴らしい絵画もいくつか残しています。

今日ご紹介する「私が、もういちど、生まれ変わる日。」第5、6曲目の中の「ふるさとの山」に出て来る「なにかものをもって」という「なにか」はこんな美しい植物の枝なのかなと思ったりします。

 

それでは5、6曲め、いってみよう!↓

(八木重吉 画)

 

5. 草に すわる

 

Prope est Dominus omnibus invocantibus eum,

omnibus invocantibus eum in veritate.

(主はおられる、助けを求める人の近くに

心から祈る人の傍らに 詩編145:18)

 

わたしの まちがいだった

わたしのまちがいだった

こうして 草にすわれば それがわかる

 

 

6. ふるさとの 山

 

ふるさとの山のなかに うづくまったとき

さやかにも 私の悔いは もえました

あまりにもうつくしい それの ほのほに

しばし わたしは

こしかたの あやまちを 讃むるようなきもちになった

 

Levavi oculoa meos in montes,

unde veniet auxilium mihi.

Auxilium meum a Domino,

qui fecit caelum et terram.

(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ

わたしの助けはどこから来るのか

わたしの助けは主から

天地を造られた主から来る 詩編121:1-2)

 

あかるい日

山をみていると

こころが、かがやいてきて

なにかものをもって

じっと立っていたいやうな氣がしてくる

 

(明日に続きます)

 

 

松本市音楽文化ホールオルガン設置30周年記念コンサート

”私が、もういちど、生まれ変わる日。”

2018年4月15日

松本市音楽文化ホール

15:00開演

https://www.harmonyhall.jp/organ30/